自叙伝(私の生い立ち「ある研究者の軌跡」



私の生い立ち・幼児期

私の生い立ちを述べる前に、いろいろの人たちとのふれあいを容易に理解できるようにするために、私の肉親関係についてまず述べよう。
 私の父、安西 孝行は群馬県邑楽郡大島村山王(現館林市大島町)の生まれで私の祖母(父の母親)、「さと」、その母親は「ひで」と言った。父や叔母、田舎の親戚の人たちの話から父方の祖父、曽祖父などについては父親の話以外は全くわからず、その話も噂話のような内容が多く立ち往生していた。そこで館林在住の高校同級生、小礒泰男君に相談したところ、館林の歴史研究の職員を紹介され、おぼろげながら館林の殿様の家臣のことがわかってきた。一方、祖父の「金丸 求」の関連の糸口を見つけるため、金丸の名前の電話番号を電話帳から書き出したところ、7名在住していることがわかったのでそれぞれ電話したみた。その結果、金丸 義信氏が祖父の弟の孫であることがわかった。求の住んでいた所の金丸家では頑として求とは関連がないと言い張った。義信氏から連絡で父の異母兄弟である静馬氏の息子の金丸 稔氏が群馬県邑楽郡邑楽町狸塚106で金丸内科医院を開業している。
 私の祖母の曾祖父、曽祖母「ひで」の夫は「角次郎」、その父親は「豊蔵」であった。曽祖父の「角次郎」は農家であったと、考えられる。「ひで」さんは夫は早く亡くして、以下の長女 "さと" 、次いで "さく" 、 "かく" 、 "いく" 、 "たま" の五人の娘を育てるために田畑を売って、髪結に専念して子育てをしたに違いない。

 私の祖母さとは館林町の殿様、秋本田島守の指南番の息子、 "金丸 求" を婿に迎えたが、侍の息子、求は生活を支えるために村で寺子屋を開いた。そのとき書物を読むために灯明の油を多く使用した。当時は油(食用油)は非常に高価だったらしく、安西家を支えるほどの収入は無かったらしい。そのために、後に安西家から追い出されてしまった。さと、求の間には孝行、マス子の二人の子供がいた。安西家ではひでさんが、独立できるように娘に髪結いを教え、さと、いく、たまはそれぞれ髪結いであった。求と離婚したさとは娘のマス子を連れて東京に出て行ってしまった。そこでこともあろうに博打打ちの配嶋 権平と結婚し、東京で髪結いをしていた。権平さんは髪結いの亭主よろしく、ほとんど働かなかったらしい。権平の弟は建具師で、皇室に家具を納めたほどの名工だった。その孫に信子ちゃんがいた。さと、権平の間には上から守勝、英昭、義久の三人の息子がいた。この三人は第二次世界大戦で出征し、戦後英ちゃんは戦死したが、守ちゃんと義チャンは復員した。一方、求は大阪市の職員となり、かなりの出世をしたらしく、大阪市電の上役にまでなったようだ。
 さくさんは後に私を大変かわいがってくれたお婆さんだ。多分、私の祖母さとが東京にでてしまったあと、私の父孝行を育てたのが、このさくさんだったのであろう。若いころの父が東京の大震災の後に東京から群馬に帰ってきてさくさんの家に一ヶ月も暮らしていたことからも窺える。

 さて、さくさんは足袋屋に嫁ぎ、銀治郎、滝次郎の二人の息子がいた。滝チャンは出征して、軍人になってから良く東京の家に遊びに来たが、その後第二次世界大戦で戦地に赴いて戦死してしまった。銀チャンは出征したかどうか忘れてしまったが戦争中から群馬県の太田市で洋裁学院を開いていた。韮川のかねさんと結婚したが子供はいなかった。私が大学時代にさくさんは銀チャンのところに移ったが、それからは銀チャン夫婦はあまり面倒を良く見なかったようだ。
 かくさんは平四郎さんと結婚し、小山家に夫婦養子に行った。平四郎さんは寄居の塩野家の出身である。この夫婦はあまりにも舅が厳しくて、二人で家出をし、東京で左官屋をして暮らしていたとのことで、その後平四郎夫婦は元の塩野家の姓にもどり、塩野 平四郎となった。塩野家にはつね、あさ、くに、佐市、まつ、ひさ子の子供がいたが、おつねさんは平四郎が婿養子に行った小山家に子孫が絶えるとの理由で無理矢理小山家に取られてしまったらしい。あさちゃん、くにちゃんはそれぞれ東京の松村家、萩原家へ嫁いでいった。佐市さんは出征して、戦死してしまった。まっちゃんは私が四歳くらいの時に、私の伯母の高橋の家に多分十八歳くらいの時に女中奉公に来ていたので知っていた。ひさちゃんは夏休みに大島に行ったときに知った。おつねさんは大島村岡里の小林家から喜三郎を婿に迎え、喜三郎さんは私の父の小学校の同級生であった。その子供は上から明治、元司、光代、泰子、豊治がいたが、豊治が生まれたときに、産後の日達が悪く、おつねさんは亡くなってしまった。元司は私とは同級生で後に大分世話になった。おつねさんが亡くなった後、おつねさんの妹のまっちゃんが後妻となり、その子供が登である。

 父の叔母のいくさんは寄居の大月家の出身のヒトと結婚し、以前は百姓をしていたが、一時非常に困ってその田畑まで取り上げられそうになった。そこで、不動産すべての名義を私の父に換えて、その困難をのりきったことがあった。私の知った頃には佐野で髪結いをしていたようだ。おたまさんは早くに亡くなったので、私の物心がついてから会っていない。いくさんには、げん、かね、作男、武(仮名)の子供がいた。作男さんは私が中学生の頃は自転車屋をやり、その奥さんは美容師で美容院を開いていた。
 さて、私にとって最も影響を受けた父の妹のマス子伯母さんの高橋家について述べよう。伯母さんの夫は高橋英千代と言い、秋田県雄勝郡湯沢の出身だった。英千代小父さんと父とはともに錺職人の丁稚奉公をした時の兄弟弟子であった。私が物心ついた頃から、向かって左隣が配嶋のお婆さん(祖母)の家、右隣が高橋の家であった。伯母さんには菊光、英代の二人の子供がいて菊ちゃんは三歳年上、妹のヨッコちゃん(英代)は一歳年上だった。伯母さんは十九の頃に大手術をして左腕だったか上に上げることができなかった。料理が得意で、きれい好きであったが、非常な優越感の持ち主で貧乏人を馬鹿にするのが好きだった。小父さんは経営者的センスを持っていた。大分後になって、邦夫が生まれた。
 私の母は千葉県の久留里の近くの村の出身の戸島 又五郎と徳さんの娘で兄(名:一次)が一人いた。この兄には久七、薫三、陽子、利雄、豊樹の五人の子供がいた。又五郎は横浜市伊勢佐木町で餅菓子屋を開き、当時は大分繁盛したようであるが、関東大震災で一切を焼き尽くしてしまった。その後、餅菓子屋を開いたがうまくいかず、非常に器用だったので、震災後の建築ブームに乗って大工仕事をしていた。餅菓子屋の頃は酒は一切飲まなかったとのことだったが、大工仕事をしてから酒を飲むようになり、私が子供の頃は非常に酒癖が悪く、我が儘の典型だった。徳さんの親は横浜の貿易商をしていて、徳さんは当時としては女学校出の高学歴だったようだ。徳さんには妹が居て、吉原の近くの田中町に住んでいた。姓は春原で、娘夫婦(姓:鳥飼)と一緒に暮らしていた。春原の伯母さんは通称「田中町の伯母さん」と母から聞かされていたので、お名前は不明である。戸島 又五郎は酒癖が悪いためか、親戚が寄りつかず、そのために母方の親戚縁者はほとんど知らなかった。
以上が私の親戚関係の全体像である。

 さて、私はどこから来たのだろうか、以下に幼い頃の記憶を羅列する。
 最も幼い記憶は多分、2歳の頃であろう。暗い家の中、押し入れが開いていた。そこに寝かされていたらしい。目がさめて、泣いていた時に配島のお爺さんが来た。父も姉も居なかった。父は当時大阪に住んでいた実父(金丸 求)に会いにいって留守だったと私が高校の頃母から聞いた。どこか多分、光月町の辺りの蔵前の方から三ノ輪の方に続く市電の沿線の歩道で私がバタバタを押しながら近所の姉の友達たちに「あんた、ちょめと(チョットの意)遊びましょうよ。」言いながら、追いかけていたのを覚えている。そのときは着物を着ていた。市電が通るのを見たりしていた。
 それから3歳の頃、浅草区(現台東区)の千束町に引っ越したようだが、私には引っ越しの記憶が無い。千束町では右隣が配島のお婆さん(祖母)の髪結の家で、左隣が高橋の叔母の家があった。
 幼い頃の想い出は断片的ではあるが、母から聞いた話では当時、浅草の芸者衆がおばあさんお所で髪結をしてもらいに沢山来ていたとのことであった。そこで色々お菓子をもらったり、私を風呂に入れたりした。その女の人が私をおぶって帰ってきたととの事であった。そのきれいな人は芸者だったらしい。高校の頃、母から聞いたことだが、父親は母に「花柳病にかかったらどうするんだ!」と怒ったそうである。
 配島のお婆さんに抱かれたり、歩いたりして連れられて、菊ちゃん、ヨッコちゃん、姉と浅草六区の映画館に行った。観客の沢山いた暗い大きい上映室で何か前方に絵が動いていた。多分、スクリーンだと思う。ただ、暗くて何か息苦しくて、狭い空間に押し込められて束縛された感じで騒いだため、お婆さんが僕を抱いて屋上に連れていき、何か食べ物を与えて、あやしたり、映画館の男の人と話をしていた。西の空に陽が落ちて行く頃であった。多分2歳位かもしれない。帰り道、菊ちゃん、ヨッコちゃん、姉は怖い顔をしていた。
 多分、3歳頃胃腸が弱くて、家で寝ていたが、母が多分買い物に行くのだと思うが、「弘行は待っている?」と言ったので、「一緒に行く。」と答えたのだとおもう。私はデンデン太鼓やいぬ張り子の模様の着物を着て、母がおぶって出かけた。
 月にお婆さんにお年玉を貰った時、「5銭玉が入っているのと1銭玉五枚の入っている袋のどちらが良い」と聞いた。私は1銭玉五枚の入っている袋を選んだ。お婆さんが「数が多いので喜んでいる。」と言っていた。姉達(菊ちゃん、ヨッコちゃん)は、「どっちも同じなんだよ。」と言っていたが、まだ分からなかった。姉たちは十銭玉のお年玉をもらったようだ。

 朝10時頃母に手を引かれて吉原の大門をくぐり、田中町の春原の伯母さんの家によく出かけた。吉原公園の池には錦鯉がいて、その周囲、郭には昼間、手首から先を布でグルグル巻きにし、そこから仏壇の鐘を叩く真鍮の棒がでていて、片方の手で鐘をもって、たたきながら喜捨をもらっていた女の人が居た。当時は上野公園、浅草ロック、隅田公園でも見かけた。その人達の多くは顏にも布を巻き、背中には観音様の入った箱を背負っていた。母はよくその人達に喜捨をしていた。その人達はライ病患者だった。吉原公園の弁天池には観音様の銅像があった。母は「関東大震災で逃げられなかった廓が焼けて熱いので多くの花魁がこの池に身を投げたのだよ。その人たちを供養するために観音様が建てられたのよ。」話してくれた。

 郭は長い建物で、その前を通ると右だか、左だかに階段があり、その階段の上に女の人の並んだ写真の表が掲げてあった。郭の前には長い丸太の手摺りのようなものがあり、よく見ると建物の中に女の人が座っていたようだった。
 ある日、群馬県の田舎から親戚のお爺さん(平野平四郎)が僕と同い年の男の子を連れて、配島の家に来た。カゴに死んだ鶏が多分三羽入っていて、おばあさんの家でヨッコちゃんと姉も来ていた。その子は持って来た鶏を掴んで姉やヨッコちゃんを追っかけると怖がって逃げ回るのを面白がっていた。ヨッコちゃんは泣いてしまったが、ぼくは平気で鶏を掴んで一緒に追っかけ廻した。この男の子が元司だと知ったのはその60年以上経ってからである。

 菊ちゃんが麻疹になってしまった。母は私に「その近くに行くな!」と何度も注意したが、すぐに忘れて、遊びに行った。ついに麻疹が感染してしまった。麻疹は治ったが、その後、麻疹は治ったが、百日咳、大腸カタルなど、連続して病気になり、毎日だるい日が続いた。着物を着ていた。お袋がおぶって近くの小野さん(医者)によく出かけた。ついに、医者からも見放されてしまった。医者の小野さんは「田舎の新鮮な空気を吸わせた方がよい。」と勧めた。そこで父を残して、母と姉と三人で父の田舎の群馬県の大島村に多分数ヶ月住んだ、田舎の家はお婆さんが一人で住んでいる家を間借りした。間借りと言ってもどこを使ってもよい感じだった。部屋には薄暗い電気がついていた。ご飯のおかずを売っている店がどこにもないので村の松屋(酒屋)に行ったらナマズの煮たのがあるとのことで買ってきた。アミの佃煮がおかずのこともあった。近所に父の伯母(足袋屋)さんが住んでいた。お風呂は無いので足袋屋で入った。ある日の昼寝から目が覚めると誰もいないので泣きながら外に出るとたまたま足袋屋のおじさんが竹竿を担いで、通りかかり、僕の手を引いて足袋屋に連れて行った。

 そんな商店が殆ど無い、田舎の生活はそれほど続けられなかったらしい。多分、数ヶ月後には東京に戻って来てしまった。
 その後、一応は病気から回復したので、外に遊びに行ったら、近所の子供から「骸骨が通る。」とからかわれて、喧嘩をしたが、連戦連敗で泣いて帰った事があった。母から「負ける喧嘩はするのじゃない。」と言われてしまった。この言葉は末長く、私の教訓になった。
 当時は何段も抽き出しのある箱を天秤で前後に担いでガチャガチャ鳴らしながら漢方薬屋がよく家の前を通った。その薬屋からアカガエルの串に刺した干物、孫太郎虫の干物などを買って、焼いて醤油を浸けて食べさせられた。医者に見放されたため、民間療法で健康にさせるためだった。
 お袋は何でも好き嫌いなく食べれば健康になると言い、よく噛んで食べろといつも言い聞かせていた。駄菓子屋では衛生ボールだけを買うことが許されていた。蜜柑は袋を取って中身だけを食べた。

 その頃は左利きで箸を使っていたが、姉と僕が向き合って食事をしていると、姉が右手で食べるように言い聞かせたが、向かい合っていると、同じ方向の手で箸を持っているので、意味が分からず同じ向きだと言い張ると、姉が後ろに回って、左手はこっちだと言っても分からなかった。
 どういう訳か、姉と従兄弟のキクちゃんとヨッコちゃんを連れてキクちゃんの親父と僕の親父がタクシーで浅草の松屋(デパート)に出かけて、松屋の食堂で夕食を食べたのだと思う。みんなはお寿司だったが、私だけいわゆる、お子様ランチの卵焼き、田麩(でんぶ)、かまぼこ、椎茸の煮たのだのが上にのせてあったチラシご飯だった。食べきれないで残した。帰りもタクシーで帰ってきた。
この頃、我が家の南の方に一際、目立ったサーチライトが一周1分くらいの速さで回転してこの辺りを照らしている建物が立ち始めた、丁度、浅草から龍泉寺に通じる大通りの浅草六区の入り口付近に建ったのがそれが国際劇場でその一番高いところに回転するサーチライトがあった。この国際劇場は浅草の目玉の一つになった。
 多分秋の頃、いつもは寒い位なのにその夜は生ぬるくて風が強く、雨も強かった。夜中に目が覚めるとみんな起きていた。二階の表側の部屋の窓の左側にひどい雨漏りで水が流れているのを見て、「家が壊れちゃうよ。」と私が泣き出すと、みんなは「何で泣くの。」と言われた。翌日、生暖かい雨がやんだので大通りに行ってみると、並木のポプラがみんな北に向かって横になっていた。

 ある暖かい日、近所の魚屋さんの店先の左側に直径が20cmほどの丸いサボテンの鉢やそのほかの植木がおいてあった。僕はその前に立っていたら、魚屋さんの女の子に、いきなり押されたので、びっくりしてサボテンに尻餅をついてしまい、「痛い!」と叫んだ。お袋と魚屋さんのおばさんが飛んできた。二人はげらげら笑いながら、お袋はパンツを脱がせてお尻に刺さったサボテンの棘を抜いてくれた。
 5月の節句で、菊ちゃんの家に武者人形の兜と刀が飾られていて、それを私に被せ、その刀でチャンバラをやって、菊ちゃんを刀で叩いたら「痛い、本当に叩いちゃダメだよ、切る真似をするの」と菊ちゃんに言われた。しかし、意味はわからなかったらしい。それ以来、その刀はいじれなくなってしまった。

 私が4歳の頃、妹の光子が生まれた。その日から、母は私をかまわなくなり、大分、荒れたようだったが、しかし、すぐに諦めておとなしくなった。
 その頃、配嶋のお婆さんの家に私とは一つ年上の信ちゃん(配嶋 信子)がきた。親が亡くなったとのことで、しばらく引き取ったのだ。信ちゃんはすこしずれていたが、私と仲がよかった。幼いときの写真にも一緒に写っていた。しかし、しばらくして、小田原に帰ってしまった。
 その頃から、外で遊ぶことが多くなった。近所のミシン屋の宮本 一(はじめ)ちゃんにはいつも喧嘩で勝っていた。いつだったか、はじめちゃんのお母さんの従兄弟だか、甥だかが「模型のモーターを作ったからみんなに見せる。」と行ってきた。僕は好奇心が旺盛なので、その晩、一ちゃんの家にいくと、一ちゃんが出てきて「弘ちゃんには見せないよ。」と言われた。僕は見たい一心で「もう一ちゃんをいじめないよ。だから見せてくれよ。」と頼むと、伯母さんが出てきて、「一、意地悪しないで見せなさい。」で、見る事ができた。
 悪戯も激しくなってきた。近所の歯医者の玄関の門柱にボタンがあり、大人の人がボタンを押すと、家の中から人が出てくるのを見て、近所の子供と押して、直ぐにその家の植え込みに隠れて見ていると、割烹着を着た奥さんが出て辺りを見回したが、誰もいないので家に戻っていった。再び押すと再び出てきて辺りを見回し、誰もいないと「出ていらっしゃい。誰!」と言うので、植え込みからノロノロと出ていくと「用もないのに何でこのボタンを押すの?」と聞かれたので、僕が「これを押すとおばさんが出るか出ないか試したの。」と答えると、ニコニコしながら「このボタンは用事がある人が押すの、いたずらで押すとおばさんは用が出来ないから押さないで」といわれて、ぼくらは「はい。」と答えた。それからそんないたずらはしなかった。

 近所の駄菓子屋(川口屋)に6年生の男の子がいた。運動神経が鈍いのか、僕らがからかって逃げても捕まらなかった。路地を入ったその家の裏口からその子が帰るとき、「やーい、やーい、ヤッチンブル、豚、」などと言ってからかうと、追いかけてきた、急いで逃げると、また、路地に入って帰っていったので、同じことを言ってからかったら、今度はおばさん(その子の母親)が出てきて、「ヤッチャン泣いているよ。からかわないで。」と言われたのでそれ以来からかうのをやめてしまった。年上の子供でも泣くんだと分かって、悪いことをしたと思った。
 暮れも押し迫ったころ酉の市があり、滝泉寺の方まで露天商が軒を並べて縁起物の熊手を売っていた。それから太い笹に赤め芋を刺して売っていた。沢山の人手でにぎわっていた、御酉さまには色々な見せ物小屋があり、大きな円筒形の二階位の高さの筒をオートバイがほとんど水平になったぐるぐる廻って見せたり、「親の祟りが子に報い、顏は美人でも首が長いろくろっ首、からだがぐるぐる長い蛇娘、サー見てらっしゃい見てらっしゃい、お代は見てからの・・・」と言った口上で客寄せをしていた。そんな見せ物小屋や芝居小屋を見て回るのが好きだった。
 母が妹をおぶって、私を連れて、御酉さまに行ったとき、笹に刺さった赤目の芋が食べたいので、あれを買ってくれとせがんだら、「あれは安産のお願いのいもだよ。」、「お願いものって、なあに?」と聞くと、「あの芋を植えると小芋がたくさんできるからでしょ。だから、子供が生まれない女の人が食べると、赤ちゃんが生まれるおまじないだよ。あんなもの買って、お母さんが食べて、おまえの弟や妹が沢山生まれたらどうするの。」とニコニコしながら話してくれた。
 ある夏の日曜日だと思うが、親父が妹をオブって、僕をつれて浅草公園に行くと自転車の荷台にガラスの容器に大きな氷を浮かせて赤い甘い水を売っていた。いわゆる苺水である。「あれを飲みたい。」と言うと親父が「お母さんに内緒だぞ」とお金をくれた。僕が走って買うとコップに冷たい苺水を入れてくれたので、それを持って一目散に親父の所に走っていくと苺水売りがびっくりして「何処に持っていくんだ。」と唖然としていた。親父は「あのおじさんのところで飲んでくるんだよ。」と言われて飲みながら戻っていくと苺水売りのおじさんは安心してニコニコしていた。その頃は胃腸が弱かったので、絶対にお袋は苺水を飲ませてくれなかった。
 佐藤英ちゃん、宮本一ちゃんたちと千束公園にいったところブランコの周りは鉄の手すりで囲まれていた。そこで十八歳くらいの女の人が突然倒れて、額を手すりにぶつけた。しばらくすると立ち上がって、ビッコを引きながら歩いて去っていった。額からは血を流していた。僕は怖くなって家に走って帰った。母に話したら、癲癇だと説明をしてくれた。また、こんなこともあった。伯母さんの家には群馬県大島の塩野の家からマッちゃんが女中にきていた。マッちゃんは僕には優しかった。ある日、ヨッコちゃんと二階で遊んでいると、いきなりマッちゃんが発作を起こして倒れ、体を激しく震えていた。僕は驚いて怖くてヨッコちゃんにしがみついて震えていた。ヨッコちゃんも僕にしがみついて震えて泣き出した。伯母さんはマッちゃんを抱いて、僕らを見ながら「大丈夫、大丈夫」とマッちゃんの背中をさすっていた。それが癲癇であることは、わかっていたが怖かった。
 午前九時頃、千束町の家から竜泉寺へ歩いて吉原公園の弁天池を過ぎ、大門をくぐり、遊郭の前を過ぎると潜り戸があった。そこから田中町の母の伯母(戸島とくさんの妹)、春原の伯母さんの家に良く出かけた。この家には母はほとんど私しか連れて行かない。この家には鳥飼 雅也(仮称)の孫がいた。孫と言っても二十代で、その雅也さんが出征することになり、その歓送会に母と出かけた。春原の伯母さんは雅也さんを家から送り出すまでは普段と変わりないようであったが、送り出してお客さんもみんな帰ってしまった後、「これでもう会えないね。」と言ってしくしく泣いていた。私は、戦争が嫌いになった。

 夏の頃だと思う。近所の友達とみんなで浅草公園に行くと、数人の男が見せ物をしながらお店を出したいた。日本の棒を立て、その棒に安全剃刀の刃を上に向けて固定しその刃に半紙のワッパをひっかけ、その棒は2mくらい離れていたと思う、その半紙のワッパに竹竿を引っ掛けて、置いてあった。その前で男の人が「この本を読むと、誰でも体力がつく。例えばこの竹を木刀で叩くと竹竿を折れるが、半紙は切れない。それくらい力がつく。力がないと半紙は切れてしまう。」と説明して、木刀で竹竿の真ん中あたりを叩くと、実際に半紙は切れないで、竹竿が折れるのを見せ、「この本を読めばわかる。」というと、色々な人たちがワット集まってその本を買っていくのだった。しばらくして、同じことを繰り返すのを近所の子供と縁石に坐って見ている内に、私が「さっきのおじさんは着物だったのに、今度は洋服だね。」と言ったら、みんなも「そうだね。」と言っていると、その店のおじさんが来て、「そんなこと言っちゃあダメだよ、これは商売なんだから。絶対黙っているんだぞ。」と、少し怖い顔で言ったのでみんな黙っていた。その人は別の若い人に何か言っていたが、しばらくするとその人がキャラメルを持ってきてみんなに配って、「もう皆んな、帰りな!」と言われたので、「皆んな!明日来ようね。」と帰ろうとしたら、おじさんが、「もう来るんじゃないぞ 」と言っていた。

 家に帰って来たら、親父が「そのキャラメル誰に貰ったんだ!」と、聞かれたので浅草公園での一件を話したら、「テキ屋をからかうんじゃない。大変なことになるぞ!」脅されたので、それからしばらく、浅草公園に行くのはやめた。
 こんな生活をしながら、幼児期もいよいよ終わりだ。母が私に「よく遊んで、好き嫌いなしになんでも食べて、よく寝ること。」を奨励したいお陰でか、予想外に丈夫になってきた。いよいよ、来年は小学生である。