自叙伝「ある研究者の軌跡」2 

小学校時代



我が家の近所には金龍小学校があった。校舎は鉄筋三階建で、隣に金龍公園があった当時の浅草の小学校には

大抵、隣に公園があったたとえば千束町の千束小学校には千束公園があった。金龍小学校の前の道路には箕輪から須田町を通ってさらに南に通っていた路面電車があり、学校の前に入谷の停留所があ 私は昭和16(1941)4月に浅草区の金龍小学校に入学のため、身体検査やら、簡単な知能テストみたいなことをやらされた。小学校の通信簿を見ると、私の体重は、入学時に14kgしかなかった。校医の先生は母に「一年遅らせてはどうか?」と、話していたが、母は「ウチの子は大丈夫です。問題ありません。」と、一歩も譲る気はないようであった。身体検査が終わると、ノッペラポウの顔をかいた絵を見せられ、口、耳、目、まみげなどそれぞれ書かれていた紙片が置いてあった。先生はこの絵に口、耳、鼻、目、まみげなどを置いて、完成してください。とおっしゃられたので、それぞれの位置に置いた。先生はその後、「何か足りないところがありますか?」と質問されたので、私は「あります。」と、お答えしました。先生は怪訝な顔をしながら、「何が足りませんか?」と言われたので、私は「体がありません。」とお答えしたら、どうも予想外の答えだったようで、後で聞いた話では、そんな答えを言ったのは私だけだったようでした。とにかく無事入学させられて 身体検査や簡単なテストが終わると教室で先生のお話しがありました。教室の机は二人がけで、腰掛けにみんな腰掛けさせられ、教室の後ろには父兄が立って見ていた。その時、私は幼すぎたようで、他の子供は大人しく、先生の言うことを聞いていたが、私だけは机の蓋を開けたり閉めたりしていると、母がそっと、「先生のお話を聞きなさい。」と言ったので、いたずらはやめ

 小学校の一年生は梅組、松組は男子生徒のクラスで、その他、女子生徒のクラスが2組と男女組があった。私や英(ひで)ちゃん(佐藤 英明)や一(はじめ)ちゃん(宮本 一)は同じ組だった 最初は、小さい連中とはすぐに仲間になったが、体の大きい連中とは何か話が合わなかったというか、ウマが合わなかった。

 この頃は学校が終わるとすぐに近所の子供と遊ぶのが、日課だった。特に佐藤英ちゃんと気が合った。千束町には国際劇場前から龍泉寺に通る、大通り沿いには自動車修理工場があった。その周辺には修理するための車が停めてあったので、しばしばそれに乗ったりして遊んだ。

 小学校の三年生の頃、理科の時間に屋上の花壇のような所にジャガイモを切って、切り口に灰を塗って、植えた実習があった。私はそれが気になって、毎日、休み時間に掘って、芋の様子を見ていたら、腐ってしまった。腐ってしまったことは誰も知らなかった。

 その頃、父が古本屋で「朝日画報」とか、「科学画報」とか言った科学に関連した古雑誌を買ってきたので、私はよく読んでいたし、「子供の科学」が気に入って、母に買ってもらっていた。

 また、隣の子と、授業中におしゃべりをしていたら、叱られて、掛図室に入れられた。掛図室には人体の骨格の標本がガラス張りの木の箱に飾られていた。その子は気味悪がっていたが、私は好奇心旺盛で、罰を受けているのを忘れて、人体の骨格をバラバラにしてしまったら、中々元通りにならなかった所に、先生が来てしまった。先生は「安西、その骨格は気味悪くないのか?」と言うので、「全然悪くありません。」とお答えすると、バラバラの状態を見て、「参ったな!二人とも教室に戻りなさい。」とおっしゃられた。先生は変な部屋に罰のつもりで我々を入れた積もりのようだったが、私にとっては当てが外れたようだ。

 小学校に一年生の暮れ、昭和16128日に第二次世界大戦が勃発し、「昭和16128日未明、我が軍は西太平洋方面において戦闘状態に入れり」と、大本営発表がラジオで放送されたのをよく覚えている。

 さて、小学校一年のいつだったか、父に連れられて、上野の科学博物館に行った。建物は左右対称の三階建で、博物館は飛行機をかたどっているような形をしていた。その頃の入館料は子供が35銭だったと記憶している。

 現在の配置とほとんど同じだと思われるが、フーコー振り子は今もゆっくり揺れている。現在では人格の尊重から考えられないことだが、当時、エジプトの女性と子供のミイラの展示されていた。また、オルガンのカットモデルが展示され、ボタンを押すと、ひとりでに動き出し、「埴生の宿」の一節を奏でるのを見て、幼かったためか気持ち悪かった。そのほか、ある場所に立つと、自分が少し離れたとことに浮き出る仕掛けや、さまざまなことを経験できた。また、いろいろな動物や鳥などの剥製や動物骨格などを始め、さまざまな植物、昆虫、鉱物の標本、人体の模型、実物大の飛行機も展示されていた。私には興味の湧く多くの物を見たり、触ったり、説明を聞いたりできたので非常に興味を惹きつけられた。屋上には対物レンズが200mm位の天体望遠鏡が設置されて、係の人がいろいろ説明してくれた。たまたま、太陽に向け、白い紙に太陽の光を当てていた。その輝いた紙には動く黒いシミみたいなものが映し出されていた。それが黒点だと説明してくれた。その紙に写しだされた光り輝いた丸い部分の縁がユラユラ揺れていた。私は初めて見たので「太陽にも波があるんだ。」と言ったら、係の人が笑いながら「空気は場所によって、密度が違うので、その空気が流れているので揺れているように見えるのだよ。」と説明されたが、小学校一年生の私には理解できなかった。しかし、珍しい物だらけだったので、惹きつけられ、学校が終わると、一人で毎日のように博物館に出かけていった。

 一方、帝室博物館(現在国立博物館)にも入館したが、美術品や古代の遺物の展示品にはあまり興味は湧かなかったので、科学博物館だけに出かけていった。

 いつの間にか、菊ちゃんの叔父さんの会社が大きくなり、我が家と祖母の家が取り壊され、そこは軍需工場に建て替えられ、父がそこの工場長になった。と同時に、浅草区千束町から下谷区光月町に越さなければならなくなった。小学校は変わらないので、そこから学校に登校した。その近所の子供達とはなかなか溶け込めず、大正学校の子供だらけなので、どうもなかなか打ち解けなかった。家から千束町まで歩いてせいぜい5分くらいだったので、千束町の友達と遊んでいた。

 私は元来体が弱くて、腹を壊したり、風邪をひいたりと、毎月休みを取らないことはなかった。そのために、医者からは「どこか、空気の良いところで暮らせば、健康になりますよ。」と提案されてしまった。たまたま、母方の祖父母が東京都江戸川区船堀町で植木屋をしていた。当時、船堀町は都内と言っても名ばかりで、幹線道路沿いは見渡す限りの蓮田や稲田で埋められていて、至る所に沼や池があり、幹線道路沿い以外は家もまばらであった。しかも、都内の小学校の隣にある、金龍公園や千束公園のような施設はなかった。そんな田舎なので、トンボ、蝶々を始め、珍しい泥に穴を掘って生活している昆虫のオケラなどやタガメ、タイコウチ、コオイムシなどの水棲昆虫を含む色々な昆虫やメダカ、鮒などの淡水魚がたくさん住んでいた。そこに引き取られて、毎日良く寝、よく食べ、よく遊んで、新川でハゼ釣りをしたり、小川や堀で、網で、魚取りをしたり、バッタやトンボを捕まえて過ごしたので、次第に健康に育ったようである。

 小学校3年の夏休みに、父に連れられて、父の故郷に行った。そこは群馬県邑楽郡大島村山王で大島村には正儀内、寄居、山王、本郷、上新田、岡里、観音の七つの部落があった。村の北側には渡瀬川が流れていて、渡瀬川の土手に登ると、真西に浅間山が見た。浅間山は冬には雪で真っ白になり、夕方には噴煙も見えた。また、北側の手前に唐沢山、小田山がありその遥か向こうには西側から赤城山、その隣の遥か彼方に日光の山々、白根山、男体山が、真東には筑波山が見えた。

 さて、父の故郷の大島村山王の父の叔母(父の母の妹)の足袋屋のおばあさんの家に寄った時、おばあさんが「弘行、夏休みが終わるまでここに泊まっていくか?」と言われたので、即座に「泊まっていくよ。」で夏休みは足袋屋おばさんのところで、過ごすことになった。私は毎日、おばさんの肩叩きをしたり、おばさんの手伝いをし、元司の家に遊びに行き、泊まってくることもあった。それからは毎年、夏休みと冬休みは足袋屋のおばあさんの家で過ごすことになった。

 夏休みや冬休みが終わると、再び母方の祖父母の家で暮らした。実際、そこで何を食べて育てられたかは記憶にないが、兎に角、風も引かなくなり、腹も壊すことは無くなった。祖母は教育ババだったようで、小学校の先生に私の成績を聞きに行って、私は数学が得意なことを先生に告げられ、祖母は私に「弘行は数学が得意なのだから、頭が良いんだよ。一生懸命勉強してごらん。」と言われ、嬉しくなった。

 勉強に励み始めたのも束の間で、戦争が次第に激しくなり、祖父母も食糧事情が悪化して、私を育てることが困難になったため、家に戻ることになった。家に戻ったのは小学校5年生で、その学期が終わる頃には学童の集団疎開が始まろうとしていた。我が家も疎開せねばならなくなり、父の故郷の群馬県邑楽郡大島村山王の疎開して、集団疎開は免れた。

 昭和19年の小学校6年の新学期が大島村立小学校で始まった。私が入学すると珍しいのか、学校に行くと色々な学年の生徒が私を取り囲んだが、すぐに仲良くなった。元司も同じクラスであった。その年は、疎開者が毎日のように増えて、新入生が毎日のように一人、二人と入学して来て、落ち着いて授業ができるのはその年の秋頃からであった。大島小学校の6年生は男女一緒のひと組で、元司の他に飯塚庄司君、山本一郎君、岩澤賢二君、高山幹雄君、渡辺英雄、などがいた。

 小学校6年生の秋に、多分二三百人の兵隊さんが小学校の校舎で寝泊まりするようになった。兵隊さんは農繁期になると近隣の農家の手伝いをしたので、芋植え兵隊と呼ばれていた。

 その年の秋頃から毎日のように空襲警報がなり、毎日お昼ことになると、米軍の四発の巨大なB29が飛来し、多分、太田市の中島飛行機工場の真上を旋回して帰って行った。毎日空襲警報がなり、家に帰されたので、もう小学校ではまともな授業は出来なくなってきた。 昭和20210日、B2990機の編隊が飛来し、太田の中島飛行機工場が爆撃された。私はたまたま元司の家に遊びに行っていて、爆撃が始まると、西側の遥か彼方に幅広く黒煙が立ち上がり、まるで映画の一幕を見ている感覚だった。その頃は防空頭巾をかぶっていたので、怪我はなかったが、高射砲の砲弾の破片がパラパラと落ちてきた。当たれば皮膚が切れてしまうほど、破片は鋭く尖っていた。

 昭和20年になると、前述の爆撃の後、毎日のように警戒警報がなり、空襲警報も度々であった。その年の戦争最中の春先に館林中学校の入学試験がった。飯塚庄司君は館林中学の試験を受けたが惜しくも落ちてしまった。

 警戒警報や空襲警報がいつ発令されるか不安な中、卒業式は無事終了した。その頃の記憶は余り無い。多分、毎日緊張の連続だったからだろう。