自叙伝「ある研究者の軌跡」3 

尋常高等学校から新制中学(現在の中学校)へ


小学校を卒業すると、私はそのまま惰性で当時、2年制の尋常高等学校に進学した。終戦後は、学校の教員が不足して、旧制中学校出の代用教員だらけだったため、毎日が、自習、自習だったこれで勉強とはおさらばだ。もう勉強とは縁が切れた。と思っていた。そんなある日、父が東京から帰ってきて、「弘行、どうするんだ、うちは農家ではないから、働くとしたら大島村には役場と農協、郵便局しかないんだぞ!」と言われた。これまで、東京に戻ることしか頭になかったので 村で働くことは全く眼中になかったし、真剣に考えていなかったので、ギョッとした。
  色々、三日三晩考えた挙句、村で働かないとして、村から出ていくとしたら、勉強しか無いと結論した。それからは毎日、人が変わったように、朝から晩まで勉強に勉強したので、今まで、碌に勉強をしなかった息子が突然勉強しだしたので、母は息子の頭がおかしくなったのではないかと思ったようだ。

 小学校を卒業した年、多分、初夏の日曜日のある日珍しく、なんの警報も鳴らなかったので、渡瀬川に出かけた。土手に登って、佐野市の方を見ると30機ほどの編隊飛行の戦闘機が飛んでいるので、まだ日本には結構飛行機があるのだなあ、と思っていたら、警戒警報が鳴り響き、その編隊が足利市だか太田市あたりで、急降下を繰り返しているのが分かったので、これは敵の飛行機だと気がつき、慌てて家に引き返した。その編隊があっと言う間に戻ってきて、大島村の上空を低空飛行して去っていた。村には爆撃しなかったが、お寺のお墓の墓石に機関砲の砲弾の傷と薬莢が落ちていた。当時はもう既に指揮系統が乱れていたに違いない。佐野市の上空をグラマンが編隊で飛んでいるのに警戒警報が発令し、すぐに空襲警報のなったのを見てもわかる。その年の815日に終戦を迎えた。 尋常高等学校の2年生の時、尋常高等学校は3年制の新制中学校(現在の中学校)になり、旧制中学校は3年制の新制高等学校(現在の高等学校)になった。

 その頃、中国大陸からの引き揚げ者が多く、大島中学にも引き上げ者の伊藤 順一先生が赴任された。また、予科練から復員して、新制中学校に入学し直し多分試験は午前中で終わったものと思われる。

その方は大島村正儀内に住んでいた。私はそのお二人を尊敬していた。そして、正造さんと一緒に勉強を進めた積もりであったが、どうも競い合って勉強する気はなさそうなので、一人で勉強することにした。しかし、正造さんは中学校には入学したけれど、高校の試験は受けなかった。それどころか次第に疎遠になった。要するに真っ向から進学する気はなかったらしい。私は尊敬の念が次第に薄れて来た。

 一方、当時、私は大島に来たときは必ず伊藤先生にお会いするために中学校を訪れたが、私が東大の大学院に入学した時に、そのことを報告しに行った時、先生は「それはまぐれだ、入学できるわけがない。」とおっしゃったので、私の努力を認めるどころか、私に嫉妬していると感じて、それきりお会いするのはやめてしまった。

 結局、中学校では真剣に進学しようと思う同級生は殆どいなかった。ただ、一人だけ、関 秀次君が東京の高校に入学したが、貧乏な農家だったためか、残念ながら、挫折して、精神病になってしまったようだ。

 私は唯、黙々と勉強した。それで家に帰ってからも夜10頃まで勉強した。中学校では誰も私が進学することは知らなかった。私は我が家の前に疎開者の新井康雄君(小学校2年生)が、よく「弘行さん、釣りに行こう。」と誘ってきたが、「釣り針がないから、行かれないよ。」とか、なんとか口実をつけて断った。すると康っちゃんは「買って来てあげるよ。」と出ていった。そんなことをしていたら、母に「あんな小さい子に、買い物をさせるんじゃない。」と怒られたので、自分で買ってきて、たまには釣りに行くようにした。康っちゃんとの釣りは高校生になっても、康っちゃんの家が東京に戻るまで続けた。その釣りが、中学-高校時代の唯一の楽しみであった。

 さて、当時は教科書もなく、旧制の教科書で戦争・軍国主義に触れそうなところを墨で塗って使用していたので、ほとんど大部分が読めない教科書だった。そのうち新聞紙のような紙に印刷した教科書が配給になり、各自ハサミで切手束ね、糸で結んで冊子にした。そんなのでも配給されれば、よかったが、大部分は先生の勝手な内容の授業であった。

 たまたま、父が宇都宮の工場で働くことになり、父に頼んで数学の参考書を買って来てもらった。それな「一人で学べる解析概論」で、厚さ3cmほどのト

イレットペーパーのような紙でところどころ穴が空いていたが、勉強には差し支えなかった。中学の時に一人でそれを毎日勉強したので、その甲斐あって、高校入学当時の数学は一次方程式や不等式などだったので、既に終わっていた。独学では二次関数までやっていて、二次方程式の解は既に理解していた。

 中学校には谷津 巌?先生、山田 英雄先生がいらっしゃった。特に山田先生には影響を受けた。当時は小学校に畑と田んぼがあり、豚を飼っていた。その豚小屋の掃除当番があり、クラスで一番小さい私と山崎努君が当番になった。豚は多分100kg位あったと思う。二人の当番の時、豚を別のところに移して、掃除するため、堆肥小屋に誘導して入れた。しかし、大きな木の板の蓋を押さえていたが、豚にひっくり返されて、校庭に逃げ出した。みんなで堆肥小屋に追い込んでくれて助かったが、豚小屋の掃除は豚の糞だらけで、とても僕らには手がつけられなかった。たまたま山田先生が、「二人はそこで豚の番でもしてくれ!」と言って、豚小屋の掃除を始められた。今までの大方の先生は口ばかりであったが、実行されたのを、初めて見た。私は山田先生を尊敬した。 中学校では英語の教科書がないので英語には苦労した。浦和の従兄妹の菊ちゃんが英和辞典を持っていて、使わないので、貰ってきた。英語の参考書は飯塚君の兄さんが貸してくれた。しかし、和英辞典は無いので、英語の勉強は調べられる範囲は限られていた

 中学校の勉強は自習がほとんどだったので、将来にかなりの影響が残った。そんな状態ではあったが、東京に戻れるあてはなかった。自転車も買えず、そんな状況でも、館林の高校受験の準備をしなければならなかった。しかし、受験の参考書がどこにあるのかも、わからなかったし、両親は小学校卒なので、相談もできなかった。要するに実行力と決断力だけが頼りであった。 翌年、新制中学の一年終了の前に飯塚庄司君は旧制中学を受験して合格した 私は新制中学校の3年の正月を終えて、新制高等学校の応募が始まったので、大島村から朝6時に家を出て、歩いて受験会場に向かい、受験した。運よく合格したが、徒歩で登校せざるを得なかった。 どうやって、受験票を提出したのかは全く思い出せないが、兎に角、歩いて受験場(館高)に辿り着き、受験した。どんな問題だったか、思い出せないが
多分試験は午前中で終わったものと思われる。 合格通知は各中学校に来たのだと思われうる。と言うのは、合格したかどうかを館高まで行かなかったことは記憶している。一応合格したことを確認して、昭和4847日、いよいよ通学である。 授業が始まる最初の日に大島村から藤岡街道を館林に向かって、朝6時に家を出た。館林市内に入った頃、後ろから自転車に乗った飯塚庄司君が「安西、こんな朝っぱらから何処へ行くんだ。」と声をかけられたので、「館高だよ。」と言うと、「入学したのか、よかったな。」とのことで、「有難う。」と答えた。彼はそのまま高校に向かって行った。

 そんなことがあってから、庄司君とは仲良くなった。